この度は、第12回湖医会賞を頂きまして、誠にありがとうございます。湖医会賞は滋賀医科大学卒業生として栄えある賞であり、大変光栄に存じます。また、御推薦いただいた永田 啓先生ならびに選考委員の諸先生方にも心より御礼申し上げます。
私は昭和32年に福岡県で生まれ、公務員(海猿)であった父の転勤によって鹿児島県で幼少期を過ごし、小学2年生から高校卒業までは宮崎県で暮らしました。その後、鹿児島大学工学部電子工学科に合格するも1日も通学せず、1浪して滋賀医科大学の3期生として昭和52年に入学しましたが、バレーボール等スポーツをしながら雀荘にも入り浸りという学生生活でした。それでも無事大学を卒業でき、昭和58年に滋賀医科大学第2外科に入局しました。当時の第2外科は心臓血管外科、呼吸器・乳腺外科、消化器外科を全て担当しており、同期の入局者は10名もいました。その中で研修医1年目に消化器外科と心臓血管外科をローテートし2年目からの呼吸器外科を現在まで続けています。入局3年目に医員となりましたが、昭和60年8月から国立療養所南京都病院へ赴任しました。そこは呼吸器外科ができたばかりで手術を含めた症例数も少なく、総合医的な仕事内容でしたが丁度10年間の勤務となりました。その後平成7年6月に滋賀医科大学第2外科助手として戻りました。その当時も呼吸器内科がなかったため、大学や関連病院の呼吸器疾患の診断から治療まで全てを担当し非常に忙しい毎日でした。その間に解剖学教室に週1回でしたがお世話になり、学位を取得するとともに、学会活動も精一杯行い全ての専門医・指導医の取得をしました。
そんな折、平成12年12月に国立病院の統廃合で八日市病院が滋賀病院として生まれ変わり、初代の呼吸器外科医長として赴任することとなりました。当初一人医長も症例数の増加と共に後輩が赴任し、今では滋賀医科大学の関連病院では最も多い4人体制となっています。病院内の立場も、平成17年から外科医長、平成18年からは統括診療部長に昇任となりました。その間、平成16年度に導入された新臨床研修システムによって、当時京都府立医科大学関連病院であった当院からは徐々に医師引き上げが始まりました。平成16年度は35人(滋賀医大出身は9人)の常勤医師数体制が、平成20年3月には内科医師が全員退職し、平成22年度には12人(滋賀医大出身10人)となりました。この人事は京都府立医大出身の院長・副院長人事にも及び、平成20年7月に国公立病院初の滋賀医科大学卒業生の院長誕生となりました。
しかし、医師不足下での病院経営は厳しく、医療提供体制の脆弱化と医療機能の低下した状況が続き、ひいては病棟の閉鎖、二次救急輪番から撤退という危機の中、なんとか外科・呼吸器外科が中心となり病院機能の維持・確保に懸命になっておりました。また、東近江市内の2市立病院も当院と同じく医師不足が進み、平成18年には東近江市全体を考える病院あり方検討会が開催され、以降は種々会議・検討会が継続して開催されて、滋賀医科大学を巻き込んでの議論が進められました。これらの検討会等には全て出席し、意見を出し、当院の再起について日夜悩まされているそんな折り、平成22年1月に滋賀県地域医療再生計画が策定され、当院を220床から320床に増床した中核病院である東近江総合医療センターと名称を変え開設されることとなりました。この計画では基金により滋賀医科大学に地域医療等に関する寄附講座を設置し、当院に医師派遣を行うこととなり、実際平成23年度からの医師派遣が開始され、患者数の増加とともに休棟中の2病棟の再開棟、新病院の建築も順調に進み、この春、計画通りに東近江総合医療センター開設となりました。現在の常勤医師数は37名となり、殆どが滋賀医科大学医局からの派遣となっています。
今回の受賞理由は臨床の業績ではなく、地域医療が破綻した時代に滋賀医科大学卒業生で初の国公立病院の院長になり、滋賀県、滋賀医科大学、東近江市、国立病院機構の4者の協定を締結し、寄附講座の設立、東近江市国公立3病院の集約、中核病院としての東近江総合医療センター設立に貢献したというものです。しかし、これらの成功は馬場学長ならびに柏木病院長を先頭に多くの関係者方々のご尽力によるものであり、まさに「天の時・地の利・人の和」があったからこそのことだと、改めて皆様方に感謝して受賞のよろこびの声といたします。また、今後とも病院発展に尽くしてまいりたいと存じますので、皆様方のなお一層のご指導とご鞭撻をお願い申し上げます。