第6回「湖医会賞」を受賞させていただくこととなり大変光栄に思っております。推薦いただいた九嶋先生、選考委員の皆様、ならびに湖医会関係各位に心より感謝申し上げます。この栄誉に応えるべく精進していきたいと思います。
さて、私の現在は滋賀医大の卒業生としてはかなり異色なのかもしれません。私は2000年5月から社会福祉法人信成会の理事長を務めております。また、乳腺外科医として非常勤で勤め、家庭では主婦であり6歳、4歳、2歳の3人の子供の母親と知的障害者の妹の保護者でもあります。
当法人は知的障害者更生施設「ふるさと学園」を本体施設として、入所・通所施設支援事業に加えて短期入所および日中一時支援、居宅介護、行動援護、移動支援、相談支援などの事業を行っております。入所定員40人、通所定員18名と比較的小規模ですが、入所・通所利用者59名とショートステイ利用者約50名と30数名の職員を預かり管理することはかなりエネルギーを要することであり、毎日がハラハラドキドキであります。そんな今日の私は弟の存在なしでは語れないものです。弟は2歳年下で、私にとって物心つく頃から常にそばにいる存在でした。重い知的障害と虚弱な身体そして喘息という重荷を生まれながらにもっていましたが、本人はもちろんそのようなことを悲観する能力もなく常に天真爛漫、つぶらな瞳をキラキラさせていました。両親と私はよく弟のことを「きっと星から来た子よね」と話し、かけがえのない存在として大切にしていたものでした。私は幼い頃から「弟のためにお医者さんになりたい」と言っていて、医学部進学にあたってはずいぶん進路指導の先生泣かせでした。入学できたものの理系科目には苦しみ、いまだに物理が理解できない夢でうなされることがあります。弟を生涯面倒みるために父は脱サラし柔道整復師となりましたが、弟が輝ける場がないことがわかり、施設を作ることが家族の夢になりました。弟の死という試練を乗り越えようやく開園することができましたが、開園5年を前に母が亡くなり、翌年父が急死してしまいました。私は鹿児島大学第一外科に入局し10数年、乳腺外科医として「さあ、これから」という時期で、学会帰りの空港で父が倒れたとの一報を受けたその時から状況が一転し現在に至っています。施設の実務にほとんど関わっていませんでしたので一から勉強でした。今まで無事務められてきたのは、利用者やご家族、職員、周囲の方々のおかげであり心から感謝しています。
振り返ってみるとその時その時でごく自然に自分の夢に向かってきたような気がします。医学部に進んだこと、鹿児島で外科医になったこと、乳腺外科をライフワークにしたこと、施設を引き継いだこと・・・。その都度私を理解し応援してくれる友人の存在は本当にありがたいものです。
「夢に向かって」は病床で母が作詞した学園歌のタイトルです。今あらためて、常に夢を持ち続けそれに向かって積極的に生きることの難しさと尊さを、教えてくれているような気がします。誰でも何においてもシナリオ通りにならないことは必ずあります。そんな時自分に話しかけてみて下さい。純粋な気持ちになって!心の原点に沿って行動すれば必ず道は拓ける、すべての人や物事の存在には意義があり、出会いによって自分は成長できるのだ、と信じること。私は、福祉事業者、医師、知的障害者の家族、母親、それぞれの自分を時には切り離し時には融合させて行動していますが、そんな自分にこそできることがあると思っています。これは一見世間のお世話になるばかりの知的障害者を家族に持ちその存在によって生かされてきた、という実感からきています。ただ自然に無垢に生きていながら、周り人の人生の道しるべになれる知的障害者ってすごい、と思いませんか?周囲の人にエネルギーを与えられるのです。私はこの方たちが「世の光に」なれる場を常に模索しています。